「自分自身であれ。君でないものになろうとするな。」
フリードリヒ・ニーチェ(哲学者)
けんかと仲直り
大人になればなるほど、けんかをしなくなる。
「平和にいきましょう」「もめ事はさけよう」
そんな言葉が、どこか“つくられた美徳”のようにきこえるようになった。
Natural.i のコンセプトも、大きく変わった。
このブログを読んでるということは、
あたらしいHPも、もう見てくれてるでしょ。
もともとの「うちの子になる?」というテーマは、
新海誠さんの『すずめの戸締まり』からインスピレーションをうけて作ったものだ。
けれど今回は、もっと根源的なところにもどった気がする。
「おれという世界」──
他の人や何かべつのものに基準があるわけじゃない
わがままでいて、なお且つあるがままでいる。
この世界はおれがルール。
この世界=「自分じしんであれ」
ニーチェの言葉でもあるように、自分じしんであるためには
まず自分じしんにきづく必要がある
人は意外と、じぶんのことはわからないものだし、
きづきにくいもの。
他の人のことはよく見えたりするのにね。
この自分自身という意識に辿りつくまでにも
いくつかの過程があったけど、
それはまた配信やブログでゆっくりはなすつもり。
とにかく、以前のありすからは変わった。
より正確に言うなら変わったというより、
ずっと内側にあったものにようやくきづいた、そんな感覚にちかい。
人のこころやきもちは流動的だ。
変わるものは変わる。
それでも変わらないものがあるとすれば、
「おれはおれ」という感覚そのものだとおもう。
この“自分だけの世界”は、
だれも触れられない、かんしょうできない場所。
そして、そこに気づいた瞬間から、
譲れないものや曲げられないものがしぜんと出てくる。
今まで気づいてたけど、気づかなかったふりをしてたこととか。
日々の会話でも、連絡のやりとりでも、
その小さな違和感にきづけるかどうか。
流さず、そこで止まり、伝え、うごく。
逆に、気づくまではうごかないという選択肢もある。
──その感覚は、
「けんかと仲直り」というテーマにもつながっていくのだけど、
きょうは情報がおおくなったのでここまでにしておく。
また気が向いたら続きをかくね。
日々の中で、
自分はどれくらい“違和感”にきづけているのか。
どれくらい自分の感覚とむきあえているのか。
そんなことを、今日もかんがえさせられる。
読んでくれて、あーーりがお。
まーたね。
ありす